リコーダーとわたし          2001-04-11 更新
★出会い・・・
1996年の11月・・・
思えばこのころにリコーダーとの再会がありました。
小学校のとき、音楽の時間にはリコーダー(当時リコーダーと呼んでいたかどうか定かではありませんが)とハーモニカをみんなで演奏していたと思いますし、運動会のときは鼓笛隊と共に「君が代行進曲」をリコーダーで吹きながら行進していたような気がします。(今でも吹けると思います。)

 こんなわたしにはリコーダーはプラスチックのその他大勢がやる楽器としてあんまり楽しくないものというイメージがつきまとっていました。
でも小学校以来一応誰でもが吹ける楽器としてソプラノリコーダーはおもちゃがわりにずっと持っていました。

 それが1996年の11月に職場内にある保育園の恒例のクリスマス会で余興に何か演奏できないかと急に思い立ち、それなら手軽なリコーダーならできる!と、職場の同僚であり、同じ保育所の親仲間のMさんと適当な曲を決めて、お昼休みに職場のグラウンドで練習しはじめたのがリコーダーとの長いブランクを置いた後の再会だったのでした。

 その当時、わたしは何かの拍子に楽器屋さんで買い求めたアルトリコーダーを持っていたのですが、ソプラノリコーダーしか吹いたことのなかったわたしには、アルトリコーダーというのは同じ指使いをしてもソプラノの音とは同じにならない、大きくて穴を押えるのもむずかしいリコーダーとして存在していたので、アルトリコーダーを中学校で習ったことのあるMさんにそれを吹いてもらうことにして、わたしはもっぱらソプラノリコーダーを演奏していました。

 そのアルトリコーダーをたまたま買ったとき、楽器屋さんには「バロック式運指」のものと「ジャーマン式運指」のものの2種類があったのですが、「どう違うのですか?」と聞いても「バロック式の指の押え方とジャーマン式の指の押え方の違いです。」という訳のわからない答えしか返ってこなくて、「ええい、よくわかんないから、バロック式というのを買っちゃえ!」と訳も分からず買ったのでした。
でも、その時買ったのがジャーマン式だったなら、後にリコーダーを習い始めるということもなかったかもしれません。その時わたしが訳もわからずに買ったのがバロック式運指のリコーダーでしたが、レッスンを始めようというときには幸にもそのリコーダーを使うことができたのです。なんとなくバロック式という名前にひかれて買ったのが功を奏したわけでした。

 1996年の冬以来、翌1997年も12月には保育所のクリスマス会でMさんや我が家の当時、小学生の子ども達とのリコーダーアンサンブルを余興で演奏しましたが、わたしの持っていたリコーダーはどれもプラスチック製のジャーマン式のソプラノ、バロック式のアルト、ジャーマン式のソプラニーノというように、今思えばおもちゃのような大変おそまつなものでした。

 1997年のクリスマスのシーズンには、ふと立ち寄った楽器屋さんにドイツのメーカー、モーレンハウエル製のプリマのソプラノリコーダーを見つけ、頭部管のカラフルなのにひかれて、欲しいなぁと思いました。そうしたらオットさんがわたしにそのモーレンハウエル製プリマのソプラノリコーダー(ジャーマン式)をプレゼントしてくれたので、大喜びしました。

その時わたしはまだジャーマン式運指のリコーダーしか吹けませんでした。
アルトやソプラニーノのリコーダーも持ってはいましたが、ただ持っていただけで、C管やF管、ジャーマン式やバロック式の知識もなく、もっぱらわたしがソプラノでメロディを吹くのに、Mさんがアルトやソプラノリコーダーで適当にオブリガートをつけてくれるというものでした。

 Mさんは職場の同僚で保育所仲間でもあり、親しい友人でしたが、もともと音楽の道に進もうと思っていたほどの人で、数年前に職場を辞し、音楽療法士へと転身し、今は知的障害者の施設で音楽療法の仕事にたずさわっています。
 Mさんとリコーダーアンサンブル?を楽しんでいたその頃はリコーダーはわたしにとってはもっぱらクリスマス会の時期を中心とした季節の楽器といったところだったのです。

 時期は少し前後しますが、そんな中でわたしにとってリコーダーが大きな意味を持つようになったのは、1997年の夏に新聞に載っていたコンサートの案内を見て、たまたま聞きにいった、「アムステルダム・ルッキ・スターダスト・カルテット」の演奏を聞いた時でした。
 三鷹市芸術文化センター風のホールで聞いたALSQの演奏は大変素晴らしく、木製のリコーダーを見たのも初めてでしたし、その音の響きの豊かさと柔らかさにものすごく感動しました。体が震えて、とてもうれしい気持なのに泣き出したくなって、鳥肌がたつようでした。何だか、いても立ってもいられないような気持になりました。演奏が終わったあとはこんなに拍手したことはないくらいに拍手しました。
ほんとは立ち上がって大きく手を振りたい気持ちだったのだけれど、そんなことする人はいなかったので、一生懸命こらえました。

 そのコンサートでリコーダーを聞いて以来、わたしもぜひリコーダーを習いたい、上手になってあんな音を出してみたい、と思うようになりました。
なるべく近くでリコーダーを教えてもらえるところはないだろうかと探したところ、翌1998年のはじめの頃、宮地楽器の生涯学習コースで月に2回教わるリコーダー教室があるのを新聞の折り込みの中に広告で知りました。連絡をしてからそこに出かけ、体験レッスンを受けてからすぐに個人レッスンを始めることにしました。

 でもそこでリコーダーはまずアルトをやるのが基本と聞いて、びっくりしました。わたしはソプラノリコーダーを吹きたいと思っていたので、ソプラノリコーダーを習いたかったのですが、誰でもまずはアルトリコーダーからやるのだということを聞いて、なんとなく不安になったものでした。吹いたことのないアルト・・・。でも気をとりなおして既に自分で持っていたYAMAHAのYRA-28BIIという白いアルトリコーダーを持ってレッスンに通い始めました。

 そこでアルトリコーダーの最低音がファの音であること、シ♭の音は今までのジャーマン式ソプラノではやったことのない指使いをしなければならないこと、音合わせはラの音で合わせることなどを初めて知りました。
ソプラノのドの指はアルトではファ、ソプラノのソの指はアルトではド・・・。

小学生のときにピアノを習っていたことはありましたが、もううん十年前のことですし、しばらく楽器演奏とはご無沙汰していたので、譜面を見て、指を押え、音を出すまでの勘のようなものをつかむのに苦労しました。
「ギースベルトのリコーダー教則本」を使ってのレッスンでは、譜面を見て、指使いになれるまでにしばらくかかりました。今でもC管とF管の指使いがごっちゃになって困りますが、とにもかくにもこうやってリコーダー教室でアルトリコーダーを習い始め、くらばやし先生とのお付き合いも始まりました。

 この個人レッスンを始めた頃から、職場でも仲間を募って、リコーダー同好会を作り、短い時間の練習を重ねていくことになりました。そして個人レッスンを始めて3ヶ月程経ってからは地域の公民館で活動しているリコーダーアンサンブル「多摩ムジカ・アンティカ」(TMA)にも参加するようになり、またさらに、くらばやし先生のアンサンブルのレッスンにも入れていただき、アンサンブルで演奏するチャンスが増えてきました。
このようにしてだんだんわたしのリコーダーの世界が拡がってきたのでした。

再び、ALSQと
★1999年夏・・・
 リコーダーを習い始めてから1年半ほど経ったとき、わたしをリコーダーの世界に導いてくれた「アムステルダム・ルッキ・スターダスト・カルテット」のコンサートが東京で行われました。東京と横浜と連日のコンサートのチケットを買ってとても楽しみにしていました。そこで聞いた演奏はその2年前に初めて聞いたときの感動をさらに越えたものだったというのもわたしにとっては驚きでした。この再会でわたしはさらに強く、深くリコーダーに引きつけられることになりました。

 そしてこのコンサート以降、新たに、MYROT、NONKY PROJECT、青い風などのグループにも参加することになり、様々なリコーダーの The Color of the Wind に吹かれつづけています。そして美しいリコーダーの音色はわたしにとっては特別な音になっているのです。

わたしのリコーダーたち
★いつのまにかこんなに・・・
1996年1997年位から少しずつ買い集めてきたリコーダーもいまでは30本近くになりました。もちろん木製のものばかりではなく、樹脂製のリコーダーも多数あります。また半分は樹脂製、半分は木製というものもあり、今ではこんなになりました。